オフィスのデスク

最新ニュース

▼平成29年度総会が開催されました。

  • 日時:平成29年5月27日(土)15時30分
  • 場所:ホテルほり江

▼ホームページを一新しました。

▼㈱クリアプラス(柏村英男社長/松江市西嫁島)が新規入会されました。

▼全印工連2025計画「新しい印刷産業へのリ・デザイン」が発刊されました。

▼平成28年7月12日(火)溝口知事に面会。ご挨拶と県工組の事業についてご説明しました。

▼平成28年5月28日(土)県工組の総会が松江エクセルホテル東急にて開催され、新役員が選任されました。

印刷の歴史

印刷技術が発明されたのは、東アジアであると考えられている。2世紀頃に中国で紙が発明され、7世紀頃には木版印刷が行われていたといわれる。
この木版印刷は朝鮮半島および日本にも伝来し、764年から770年にかけて現存する印刷物で製作年代がはっきりと判明しているものとしては世界最古のものである、日本の「百万塔陀羅尼」が印刷された。
また11世紀には陶器による活字を使った印刷が行われていた。金属活字による印刷は13〜14世紀の朝鮮(高麗)にあらわれている。ただし中国や日本においては文字数が膨大なものにのぼったため活字はそれほど普及せず、19世紀半ば以降にヨーロッパから再び金属活字が流入するまでは木版印刷が主流を占め続けていた。
この木版印刷の技術はシルクロードを西進してヨーロッパにももたらされたが、その当時は本の複製はもっぱら写本が一般的であった。
14世紀から15世紀ごろには、エッチングの技法がヨーロッパにおいて広がり、銅版印刷の技術が新たに生まれた。銅版は繊細な表現が可能であることから主に文字ではなく絵画の印刷に使用され、銅板による版画(銅版画)はルネサンス期以降広く使用されるようになった。
印刷に一大転機をもたらしたのが、1450年頃のヨハネス・グーテンベルクによる金属活字を用いた活版印刷技術の発明である。グーテンベルクは金属活字だけでなく、油性インキ、印刷機、活字の鋳造装置などを次々と開発し、これらを組み合わせて大量に印刷ができるシステムを構築して、印刷という産業が成り立つ基盤を整えた。
さらにそれまで使用されていた羊皮紙よりもはるかに印刷に適していた紙を印刷用紙に使用した。こうしたことからそれまでとは比べ物にならないほど書物が簡単に生産できるようになり、印刷が急速に広まった。
その伝播速度は非常に早く、発明から20年ほどたった1470年までには、発明されたドイツのマインツのみならず、ライン川流域やパリ、北イタリアやローマにすでに印刷所が設立され、それからさらに10年後の1480年までにはイングランド・フランス全域・アラゴン・ネーデルラント・北ドイツ、さらにはチェコやポーランド、ハンガリーにいたるヨーロッパの広い地域で活版印刷所が設立されていた。
グーテンベルクの発明から1500年以前までに印刷された書物はインキュナブラ(揺籃期本、初期刊本)と呼ばれ、どれも貴重書であるため莫大な古書価がつくこともままある。
当時の印刷物は、聖書を始めとする宗教書が半数近くを占めており、活版印刷による聖書の普及は、マルティン・ルターらによる宗教改革につながっていく。ただし当時の印刷物の増大は宗教書に限らず、学術や実用書などあらゆる分野の印刷物が激増した。
その後、欧米においては長らく活版による文字、凹版による絵画、挿絵の印刷が行われた。18世紀初頭にはスコットランドのウィリアム・ゲドが鉛版を考案した。
これは組みあがった活字に可塑性のあるものをかぶせて雌型を作り、それに鉛を注いで印刷用の板を再作成する方法で、組みあがった活字の再作成が容易になり、再版のコストを大きく下げた。
こうした鉛版には当初粘土、次いで石膏が使われていたが、19世紀前半にフランスのジュヌーが紙を使って紙型を作成することを考案し、以後この方法が主流となった。1798年にドイツのセネフェルダーが石版印刷(リトグラフ)を発明。これが平版印刷の始めとなる。
1800年にはイギリスのチャールズ・スタンホープ(スタナップ)が鉄製の印刷機を発明し、それまでの木製のグーテンベルク印刷機にとってかわった。1811年にはドイツのフリードリヒ・ケーニヒが蒸気式の印刷機を開発し、1851年には輪転印刷機が発明された。
こうした機械化によって、印刷物はより速く大量生産でき安価なものとなった。現在主流となっている平版オフセット印刷は、1904年にアメリカのルーベルが発明したといわれているが、それ以前にイギリスではブリキ印刷の分野で使用されていた。ルーベルの発明は紙への平版オフセット印刷である。

日本では、「百万塔陀羅尼」が作成されて以降二百数十年間、印刷物が出されることはなかったが、平安時代中期になって、摺経供養が盛んに行われるようになった。これが、奈良を中心とする寺院の間に、出版事業を興させるようになる。興福寺などで開版した印刷物を春日版と呼ぶ。
鎌倉時代には高野山金剛峰寺でも出版を行うようになった。これは高野版と呼ばれる。13世紀頃からは、宋へ留学した僧がもたらした宋刊版の影響を受け、京都で五山版が出る。安土桃山時代になると、宣教師に日本語を学ばせるため、初めて活字による印刷(キリシタン版)が行われ出す。近世以前は金属活字を用いたキリシタン版や駿河版といった例外を除き、木版印刷が中心だった。
江戸時代初期から中期にかけて、美麗な嵯峨本を始め、庶民の読み物である赤本や黄表紙など、一気に出版文化が花開くことになる。これらには、木活字もしくは木版を用いた整版が使われた。 木版以外では、1783年に司馬江漢が腐食による彫刻銅版画を製作している。1856年には長崎奉行所内で活版による近代洋式印刷が始まる。
明治時代に入り、1870年には本木昌造が長崎に新町活版所を創立、これが日本における民間初の洋式活版の企業化である。1888年には合田清が木口木版(西洋木版)を日本に初めて紹介した。
なお、日本初の印刷専門誌『印刷雑誌』の創刊号(1891年)の表紙には、合田清の木口木版画が使われている。1896年には、小川一真が日本初の3色版印刷を発表した。1902年には、小倉倹司が一般刊行物では日本で最初の3色版印刷物を発表した(明治35年7月15日発行の「文藝倶楽部」第8巻第10号の口絵に発表した「薔薇花」)。1918年、築地活版製造所が邦文活字の鋳造を開始。1919年には、HBプロセス法が日本に移入された。
1924年、石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の試作機を発表、1926年には、写真植字機研究所を設立した。1929年、実用機が完成。その後2人は袂を分かち、それぞれ写研、モリサワとして写植オフセットの時代を支えていくことになる。
1960年、電子製版機(カラースキャナ)が実用化され、1970年代には、国産4色同時分解スキャナが開発された。この頃から電算写植、オフセット印刷が主流となる。
1985年、アメリカでDTPが始まり、1989年、日本初のフルDTP出版物『森の書物』が刊行された。この頃からデータのデジタル化が加速。オンデマンド印刷、電子出版などが徐々に現実となり始める。(Wikipediaより転載/H28.8.6)